無価値観とは|私たちが抱えてしまう理由
無価値観とはどういう感覚なのか
無価値観とは、自分には何の存在意義もない、自分は生きている意味がない、そんなふうに感じる心の状態を指します。ただ落ち込んでいるというよりも、もっと深く、根っこの部分で「私なんかいないほうがいい」と思ってしまうような感覚です。
誰かに否定されたわけでもないのに、自分で自分を否定してしまう。何かができない自分、誰かより劣っていると感じる自分、期待に応えられなかった自分。そんな自分を、無意識のうちに責め続けてしまう。それが無価値観の正体です。
表面上は元気そうに見える人も、心の奥底でこの感覚を抱えていることがあります。だからこそ、自分でも気づかないうちに苦しみが積み重なり、ふとした瞬間に「なんでこんなに苦しいんだろう」と立ち止まることになるのです。
無価値観が生まれる背景
無価値観は、生まれつき備わっているわけではありません。多くの場合、育った環境やこれまでの経験の中で、少しずつ心に根を張っていきます。
たとえば、子どものころ、親や周囲の大人から「もっと頑張りなさい」「そんなことじゃダメだ」と言われ続けた経験があると、無意識のうちに「今の自分ではダメなんだ」と思い込むようになります。本当はもっと抱きしめてほしかっただけなのに、愛されるためには「できる自分」「優れた自分」でいなければならないと学習してしまうのです。
また、学校や社会に出てからも、競争や比較の世界にさらされ続ける中で、「あの人より劣っている」「結果を出さなければ意味がない」という価値観が植え付けられていきます。誰かと比べることでしか、自分の存在価値を確かめられない。そんな感覚が、無価値観をさらに強めていきます。
さらに、失敗や挫折の経験も、無価値観を深める要因となります。試験に落ちた、仕事でミスをした、人間関係がうまくいかなかった。そんな出来事に直面したとき、「私はダメな人間なんだ」と短絡的に自分を否定してしまうと、そこから抜け出すのが難しくなってしまうのです。
無価値観を抱えるときに、心の中で起きていること
無価値観を抱えているとき、心の中では、表面とは違う静かな葛藤が続いています。
「もっと頑張らなきゃ」「もっといい自分にならなきゃ」と、自分を追い立てる声が響く一方で、「どうせ私なんか」というあきらめの気持ちも同時に存在している。そのふたつの気持ちがせめぎ合うことで、心はどんどん消耗していきます。
本当は、誰かに認めてもらいたかった。本当は、何もできなくても「あなたはそのままで大切だよ」と言ってもらいたかった。そんな願いが、うまく言葉にならないまま、心の奥に押し込められていく。
そして気づけば、「頑張れない自分」「誰にも必要とされない自分」だけが強く意識されるようになり、自分に期待することも、自分を信じることもできなくなってしまうのです。
この状態が続くと、次第に小さな挑戦さえも怖くなります。何かを始めても、どうせ失敗する、どうせ認めてもらえない、という思考にとらわれ、行動する前に諦めてしまう。無価値観は、未来への一歩を踏み出す力をも奪っていきます。
さらにやっかいなのは、無価値観があると、人の好意や愛情すら素直に受け取れなくなることです。誰かが優しくしてくれても、「きっと本心じゃない」「こんな私に優しくするなんて裏があるに違いない」と疑ってしまう。自分で自分を孤独に追い込んでしまうのです。
無価値観を抱えることは、単に「自分に自信がない」ということ以上に、生きることそのものを苦しくさせてしまう。そして、それに気づいていながら、どうしていいかわからないまま、さらに自分を責めてしまう。その悪循環が、心を深く蝕んでいきます。
無価値観を「なくそう」として、苦しくなった日々
無価値観を消したくて、必死だった頃
無価値観を抱えていることに気づいたとき、最初に湧いてくる感情は「こんな自分をどうにかしたい」というものかもしれません。
この苦しさを消したい。もっと自信のある人間になりたい。そう思って、もがき始めるのは、ごく自然な流れです。
自己啓発書を読んだり、ポジティブな言葉をノートに書き出したり、努力して自分を変えようとしたり。
いろんな方法を試して、「無価値観をなくすために」一生懸命になった時期があった人も多いのではないでしょうか。
でも、頑張れば頑張るほど、心はどこかで疲弊していきました。
「まだ足りない」「こんな自分じゃダメだ」という思いが、さらに無価値観を強める結果になってしまったのです。
頑張るたびに、無価値観が強くなった理由
無価値観をなくそうとする行動の根っこには、「今の自分はダメだ」という前提が隠れています。
つまり、どれだけ努力しても、「ダメな自分を変えなきゃ」という気持ちでいる限り、心の深い部分ではずっと自分を否定し続けているのです。
たとえば、自己肯定感を高めるために「私は素晴らしい」と毎日唱えたとしても、
心の底では「本当はそうじゃない」と思っていたら、その矛盾がさらに苦しさを生みます。
何をしても、どんなに成果を出しても、どこか満たされない。
達成感が一瞬で消えて、また次の目標を探して走り出す。
止まったら無価値な自分に飲み込まれる気がして、無理にでも前に進み続けなければならなかった。
そんな状態では、どれだけ外側を変えても、根本の無価値観は消えないままでした。
人と比べて、さらに自分を責めた日々
無価値観を抱えたまま生きていると、周りの人たちがまぶしく見えることがあります。
あの人はうまくいっている。
この人は愛されている。
私は何もない。
私はダメだ。
比べたくないのに比べてしまう。
頭ではわかっているのに、心が追いつかない。
SNSを見れば、誰かの成功や幸せな日常が流れてくる。
そんな日々の中で、ますます「自分には価値がない」という思いが強くなっていきました。
本当は、誰だって人には見せない苦しみを抱えているのに。
それがわかっていても、自分だけが取り残されているような感覚からは、なかなか抜け出せなかったのです。
無価値観を否定し続ける苦しさ
無価値観をなくすために頑張るほど、自分の心を否定し続けることになります。
「そんなこと思っちゃダメだ」
「もっと前向きにならなきゃ」
「ネガティブな自分なんて嫌だ」
でも、本当の気持ちはどこにも行き場がないまま、心の奥で積もり続けていきました。
無価値観を抱く自分を、受け入れることができない。
だから、さらに無理をして、さらに疲弊して、ますます自分が嫌いになる。
そんな悪循環の中で、「どうしてこんなに生きづらいんだろう」と思いながら、それでも立ち止まることができずにいました。
一番苦しかったのは、無価値観そのものではなく、
無価値観を否定し続けることによって、自分を見失っていく感覚だったのかもしれません。
無価値観を受け入れるという選択
「なくす」のではなく、「ある」ことを認める
無価値観をなくそうと頑張り続けた末に、あるとき気づいたことがありました。
それは、「無価値観を消そうとする限り、苦しみは終わらない」ということでした。
無価値観は、努力で消せるものではなかったのです。
むしろ、無理に前向きになろうとすればするほど、心の深いところでは自分を否定してしまう。
だから、たどり着いたのは、「無価値観があることを認める」という選択でした。
無価値観があってもいい。
無価値観を抱える自分も、自分の一部なんだ。
そう思えたとき、肩の力が少し抜けたのを覚えています。
無価値観を抱えているからといって、すぐに人生がダメになるわけではない。
無価値観を感じながらも、人と話して笑ったり、美味しいものを食べたり、好きな音楽を聴いたり、そんな時間はちゃんとある。
「完全に無価値観をゼロにしなきゃ」という思い込みを手放したとき、世界がほんの少し、違って見え始めました。
無価値観があっても生きていける、という発想
無価値観を受け入れる、というと、
「この苦しさを一生抱え続けるってこと?」
「諦めるってこと?」
そんなふうに感じるかもしれません。
でも、実際は違います。
受け入れるとは、「あってもいい」と認めること。
無理に消そうとしないだけで、自然に心の中の力のかかり方が変わるのです。
無価値観を感じる日があってもいい。
無価値観に押しつぶされそうな夜があってもいい。
でも、そんな日ばかりじゃないことも、きっとある。
何も感じないふりをする必要もないし、無理に元気に振る舞う必要もない。
無価値観を抱えながら、それでもごはんを食べ、仕事をして、人と関わり、生きていく。
それは、思っているよりずっと、すごいことなのかもしれません。
自分が思うほど、周りの人たちは完璧じゃないし、みんなそれぞれ心の中に抱えているものがある。
そのことに気づけると、少しずつ「自分だけがダメなんじゃないか」という感覚も和らいでいきました。
受け入れることで心がどう変わったか
無価値観を受け入れる選択をしてから、劇的に何かが変わったわけではありません。
日常は、相変わらず地味なままでした。
でも、明らかに違ったのは、自分を責める声が静かになったことです。
以前なら、ちょっとした失敗や誰かの何気ない言葉に、すぐ「やっぱり私はダメだ」と心が折れていました。
それが、無価値観がある自分を責めないようになったことで、少しずつ耐性がついてきたのです。
失敗しても、「そういうときもあるよね」と思える。
誰かとうまくいかなくても、「自分を全否定する必要はない」と思える。
小さな変化かもしれないけれど、その積み重ねが、生きることそのものを軽くしていきました。
そして何より、自分との距離感が変わりました。
無価値観を抱えたままの自分を、どこか他人事のように眺められるようになった。
「ああ、また無価値観が出てきたな」と、少し冷静に見られるようになったのです。
それは、自分に対して優しくなることとも違います。
無理に自分を好きになろうとするのでもない。
ただ、「今の自分はこうなんだ」と認めるだけ。
それだけで、こんなにも心が楽になるんだということを、初めて知りました。
無価値観と共に生きるということ
無価値観は、消えなくてもいい
無価値観を受け入れたからといって、それが完全に消えてなくなるわけではありません。
ふとした瞬間にまた顔を出すこともあります。
誰かに否定されたとき。
うまくいかなかったとき。
思いがけず心がざわついたとき。
そんなとき、「またこんな気持ちになるなんて、私はやっぱりダメだ」と思ってしまいそうになるけれど、
今はもう違います。
無価値観が出てきたら、「ああ、また出てきたんだな」と静かに気づく。
無理に消そうとしない。
無理に前向きになろうともしない。
ただ、「今、そう感じているんだな」と認める。
それだけで、心が少しずつ落ち着いていきます。
無価値観を完全になくす必要はない。
それが自然な感情の一つだと捉えられるようになったとき、生きることがずいぶん楽になりました。
無価値観に飲み込まれそうなとき、どう向き合うか
無価値観が強くなって、心が苦しくなる日もあります。
そんなとき、以前は「何とかしなきゃ」「早くこの状態を抜け出さなきゃ」と焦っていました。
でも、無理に抜け出そうとすると、余計に苦しくなる。
それがわかってからは、焦るのをやめました。
無価値観を感じる自分に、ただ寄り添う。
「今はそんなふうに感じているんだね」と自分に声をかける。
それだけで十分だと知ったのです。
何もできない日があってもいい。
人と話したくない日があってもいい。
そんなふうに、自分の状態をありのまま受け止めることができると、不思議と回復も早くなりました。
無価値観に飲み込まれそうなときに必要なのは、
「早く抜け出すこと」ではなく、
「今ここにいる自分を否定しないこと」だったのかもしれません。
無価値観があったから気づけたこと
無価値観に苦しんだ時間は、たしかにしんどかった。
できることなら、そんな思いをしない人生を歩みたかったと思うこともあります。
でも、無価値観があったからこそ、見えたものもありました。
誰かの痛みに気づけるようになったこと。
言葉にならない孤独を、想像できるようになったこと。
表面的な強さだけでは、人は救われないことを知ったこと。
無価値観を抱えたままでも、誰かを大切にできる。
無価値観を感じる自分を責めなくなったことで、人にも優しくなれた気がします。
そして、無価値観を完全になくす必要なんてない、と心から思えるようになったこと。
それは、過去の自分には考えられなかった変化でした。
無価値観を受け入れ、共に生きるというのは、
「完璧な自分」になることを目指すのではなく、
「不完全なままでも生きていける自分」を認めることだったのだと思います。
傷つきながらも、笑ったり、泣いたり、誰かを思ったり。
そんなふうに日々を重ねていくことが、何よりも尊いのかもしれません。
まとめ|無価値観を受け入れたその先にあるもの
無価値観に苦しんでいた頃、ずっと「こんな自分じゃダメだ」と思っていました。
何とかして変わらなきゃ。
もっと価値のある人間にならなきゃ。
そうやって自分を追い立てていたけれど、苦しさは一向に消えませんでした。
無価値観を「なくそう」とする限り、ずっと心は傷つき続ける。
それに気づいて、無価値観そのものを「あるもの」として認めたとき、
初めて自分との関係が変わり始めました。
無価値観があることを否定しない。
苦しい日があってもいいと認める。
完璧じゃない自分を責めない。
そんな小さな選択の積み重ねが、
少しずつ心をやわらかくしてくれたように思います。
無価値観を抱えているからこそ、見える世界もあります。
誰かの弱さに気づけたり、
当たり前の日常がありがたいと感じられたり、
生きているだけで十分だと思えたり。
無価値観を受け入れたその先には、
「もっと頑張らなきゃ」と力むことのない、
自然体の自分がいました。
生きることに正解も不正解もない。
無価値観を抱えたままでも、
その日その日を、自分なりに歩いていく。
それだけで十分なんだと、今は心から思います。